落語「佐々木政談」の舞台を歩く
この噺のもう一つの主題は余録です。付け届けは与力、同心に公然と行われていた。諸藩の大名を筆頭に町々からも、「いつもお世話になるから」と、年中付け届けが絶えなかった。裏からそっと出す者や大名などは公然と奉行所に進物として届けていた。後で筆頭役が各自に分配したが、多い時で与力一人に1年で三千両もの大金が分配されたという。すごい別途収入です。その他に拝領地を又貸しして、地代まで入った。 ■池田大助 2.佐々木信濃守は静岡藩生まれで佐々木顕発(あきのり)と言います。非常にマイナーな奉行を主人公にしています。なので、詳しい経歴は判りません。佐々木信濃守は
祿高200石、嘉永5年(1852)より安政4年(1857)まで大阪東町奉行を5年間勤め、大阪から江戸に移り、作事奉行から北町奉行、西丸御留守居役から南町奉行に着きました。その後、外国奉行にもなっています。佐々木信濃守顕発の墓所は谷中霊園にあり、墓碑の正面には”従五位佐々木蘭斎之墓”と刻まれています。没年明治9年12月31日。 円生が最初に「嘉永年間に南の町奉行・・」と言っていますが、上記の年号から文久年間の誤りであるのが判ります。
大阪町奉行の時代は嘉永年間ですが、舞台が違います。 3.新橋竹川(たけかわ)町 (中央区銀座7丁目8〜10)桶屋高田屋綱五郎、伜四郎吉、家主太兵衛、が住んでいた所。
銀座ですよ銀座、桶屋さんが、です。と思いますが、当時はそれ程でも無かったのでしょうか。 ■数寄屋橋御門口 (現;新数寄屋橋脇) JR有楽町前にある”マリオン”、元朝日新聞社が有った北側が、南町奉行所。その前にあった外堀に架かった橋が数寄屋橋。その橋前に御門が有って、数寄屋橋御門口と言った。数寄屋橋を渡ると、そこが今の銀座。当時の地名で元数寄屋町と言った。 南町奉行所と職務について、及び数寄屋橋の写真は37話「三方一両損」で詳しく記述しています。 4.八丁堀の与力と同心組屋敷 (中央区八丁堀1〜2丁目及び日本橋茅場町1〜3丁目)
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。 八丁堀の現在地は中央区八丁堀1−3丁目です。南八丁堀が4丁目です。与力・同心組屋敷が八丁堀や茅場町に集中してあったのでしょう。
堀の八丁堀は街の南端に西の弾正橋から東の稲荷橋まで約八丁(870m位)あった。近年は”桜川”と呼ばれたが埋め立てられて桜川公園や都勤労福祉会館等がその上に建っています。 舞台の数寄屋橋から銀座、谷中墓所を見て歩く
有楽町駅前の”マリオン”北側、それが江戸時代に南町奉行所が有った所です。今の新数寄屋橋をくぐり(渡り、じゃないのが悲しい)、SONYビルがある数寄屋橋交差点を右に曲がり、銀座の街を斜めに歩いていきます。銀座は高級品を扱う店が多いのですが、画廊も結構目に付きます。7丁目に入ると裏通り(失礼)には飲み屋さんがひしめいてきます。飲み屋さんと言っても、赤提灯の様な店ではなく、高級(?)スナック等で敷居はたいそう高いのが通常です。表通りに出ると、ツンとすましたお店が続いています。銀座7丁目、ここが江戸時代”竹川町”と言われた所です。当然、悪ガキ達がお奉行ごっこをしている様な情景はどこにもありませんし、想像だに出来ません。
着飾ったご婦人方の姿が目に付きます。
谷中霊園の佐々木信濃守の墓所を訪ねます。 地図 写真 それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 新橋竹川(たけかわ)町 (中央区銀座7丁目8〜10) 新橋竹川(たけかわ)町その2 (中央区銀座7丁目8〜10) 与力と同心 (中央区八丁堀) 佐々木信濃守顕発の墓所(台東区谷中霊園、「乙2号8側」) 2002年5月記 |
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